国立新美術館で、ルーブル美術館展を観てきた。お目当てはフェルメールの「天文学者」。
展示は、風俗画という視点で西洋画の歴史を簡単になぞるように構成されていた(と思う)。説明によると古代の西洋絵画は歴史画、肖像画、風景画、静物画、という形に分類され、この順にクラス分けされていたらしい。そしてどの分類にも属さない人々の暮らしを描く風俗画は、居場所すらない時代があったそうだ。映像ではなく主題が主眼に置かれた分類である歴史画を除外すると、肖像画はポートレート写真、風景画は風景写真、静物画はモノ撮り等の写真、風俗画はストリートフォト。みな対応するものがある。映像芸術としての写真は、やはり絵画をしっかり継いでいるんだなと思う。
フェルメールの『天文学者』。上の画像は同作品の写真。これをコンピュータのディスプレイに表示して改めて思うけれど、肉眼で見た実物とは、やはり違うと感じる。思うにキャンバスの質感や照明の当て方、実物の面積、目線の高さといった要素すべてが映像鑑賞には影響するわけで、美術展に行けばこれらが最高レベルに整った状況で鑑賞させてもらえる。「本物は違う」のかどうかは自分のような素人には分からないけれど、鑑賞環境の良さについては間違い無く美術展の方が良いと断言できる。まあ、上の写真の場合は解像度や階調性の再現度で明らかに劣化していると断言できるけれども(本のページに何が描かれているのか拡大表示しても見えないし)。
今回は試みに、鑑賞中に気付いたことをメモに走り書きしていた。転記してみる:
窓下への映り込みが描かれている。椅子の脚の造形まで描き込んでいる。シャドウ部の織り目、陰影の書き込み。本のページ面すら描いている。地球儀の図柄の精緻な描き込み。地球儀のシャドウ部は現実より明るく描いているようだ。窓のガラスの質感。左手の中手骨頭が作る影の写実的な陰影の階調。
写真のような、という褒め言葉があるけれど、少し写真をかじった自分の感覚で「これが撮れるか」と考えると、即答で無理だと判断できる。構図等のセンスの良さがまず到底及ばない。技術的には?特にシャドウ部に注目すると愚直な写実ではなく、部位ごとに適切に明るく描いており、写真なら白飛びに近いと想像される窓も明るさを抑えている。このレベルまで微修正を加えて完成させていくのは、自分には到底できないと思う。それにしても、あの陰影表現の繊細さ、圧倒的なディテール。5-6m離れていても感じる存在感。近くで観て、単眼鏡で細部を観て、離れて全体を観て、また近づいて。何度観ても飽きず、引き付けられるものがあった。これまで写実的な絵画には興味が無かったのだけれど、考えを変えさせてくれる。名画、ということか。
あと一枚、魅力を感じた絵があった。ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『身づくろいをする若い娘』という作品。遠目に見て「絵画っぽくないな」と感じ、寄って観た。天文学者のように圧倒的ディテールというわけでもないし、なんだけれど、なんだろう、魅力を感じる。美しいかというと、そうでもないような気もするし、自分でもよく分からない。本物を、もうちょっと観ておけば良かったな。
言葉で感性を表現するのは難しい。プログラマーとして稼いでいるぐらいに自分は論理的思考が得意だけれど、感性・感情の思考は得意ではない。比較的最近、自分が撮った写真に関して感性的なコトを書く試行をしているけれど、普段使わない頭の訓練になっているような気がする。